大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 平成8年(わ)992号 判決

主文

被告人に対し刑を免除する。

理由

【罪となる事実】

被告人は、平成八年三月八日午後一〇時三〇分ころ、大阪市港区《番地略》居酒屋「甲野」店内において、A(当時五七歳)から突然背後より出刃包丁(刃体の長さ約一一・五センチメートル、平成八年押第三四六号の1)で背中を刺されたため、自己の生命、身体を防衛するため、とっさに両手で同人の両手首を掴んで右包丁を奪いとり、Aが死亡するに至るかも知れないことを認識しながら、あえて、その防衛に必要な程度を超え、右包丁で同人の前胸部、左側頚部、背部等を数回にわたり突き刺すなどし、よって、そのころ同店前路上において、同人を左側頚部刺創にともなう左側頚隊動脈、左内頚静脈切破により失血死させたものである。

【証拠】《略》

【事実認定の補足説明】

一  本件の争点は、被告人に殺意があったかどうか、その行為が正当防衛、過剰防衛、誤想防衛又は誤想過剰防衛に当たるかどうかである。

二  まず、前掲各証拠によれば以下の事実が認められる。

1  被告人及びAは、共に本件犯行現場となった居酒屋「甲野」の常連客であった。被告人は平成六年九月ころ、同店において知人と飲酒中、Aがからんできたため同人を手拳で一回殴打したことがあったが、それ以後本件に至るまでの間は同店等で顔を合わせる程度で特に交渉もなかった。

2  同店は、東西に細長い、カウンター席のみの店である。出入口は店舗西側にあり、右出入口から東奥に向かって、L字型のカウンターがある。カウンターの北側には調理場が、東奥にはカウンター内への通路とトイレがある。南側は壁となっているが、東奥から四つ目の席の後ろ辺りには勝手口がある。被告人も本件当時、このことを知っていた。なお、カウンターと南側の壁との間の幅は約九〇センチメートルであり、客が席に座るとその後ろは人一人がやっと通れるくらいの幅しかなかった。

3  被告人は、本件当日午後八時三〇分ころ、職場の同僚らと同店を訪れ、話をしながら飲酒していた。最初東奥から六つ目付近の席に座っていたが、午後九時五〇分ころAが来店し、出入り口付近の席に座ったため、以前のトラブルを知る店の経営者の頼みで奥に詰め、被告人は東奥から四つ目付近の席に移り、同僚がその左右両隣に座ることとなった。Aは、午後一〇時一〇分ころ、一旦店から出たが同二〇分ころ店に戻り、出入口付近の席で飲酒していた。被告人はこのころまでに、ビール二本、ブランデー水割り八杯ほどを飲んでいた。

4  午後一〇時三〇分ころ、Aはカウンター席と南側壁との間の通路を通り、被告人が気付かないうちに、その左斜め後ろ付近まで来たうえ、突然所携の出刃包丁(刃体の長さ約一一・五センチメートル)で被告人の背中を刺し、背部第九から第一〇胸椎の刺突起の右側に深さ約六センチメートルの傷害を負わせた(なお右傷害は、後日加療約二週間を要し、放置すれば出血により死亡する可能性もあるものであった、と診断された。)。

5  被告人が左斜め後ろを振り返ったところ、Aが右包丁を同人の腹の前に両手で握り、その刃先を被告人の方へ向けた格好で立っており、さらに向かってきたことから、被告人は立ち上がり、両手で包丁の刃先の方向にAの両手首を掴み、もみ合いの末包丁を奪い取り、直ちに、右包丁で同人の胸部その他数ヶ所の部位を突き刺すなどした。その過程で、被告人はAと正対しながら出入口方向に押して行き、東奥から七つ目の椅子の後ろ付近まで移動していた。

6  調理場にいた経営者は、Aが被告人に近づいたのを見るや、カウンターの席側へ行き、そこでAの攻撃と被告人の反撃を目撃し、被告人の背中側から被告人を止めに入った。被告人の左右に座っていた同僚らは、被告人が刺されたと言って立ち上がり、Aに攻撃を加えているのを見て、止めに入った。このように制止された被告人は、包丁を手放し、席に座った。Aは同店前路上まで行き、倒れた。

7  この結果、Aの身体には、左側頚部刺創のほか、前胸部(深さ約五・五センチメートル)、背部(深さ約六・五センチメートル)、左眼部(深さ約四・五センチメートル)各刺創、左耳介刺創、左手掌母指側刺創、下顎部左側切創等が生じた。左側頚部刺創は、内部で二方向に分かれており、そのうち左内頚静脈前面を切破し、左外頚動脈起始部を完全に切断し、頚部深部筋層内に終わる深さ約七・五センチメートルの損傷がもっとも深く、致命傷であった。

8  なお、本件当時、被告人は身長約一八〇センチメートル、体重約九〇キログラムであり、Aは身長約一五〇センチメートル、体重約五五キログラムであった。

三  殺意について

1  弁護人は、被告人は恐怖感から無我夢中で包丁を振り回したもので、その具体的態様、狙った部位、個数等何も覚えていないのであるから、被告人には殺意がないと主張する。

2  しかし、二で述べたように、本件凶器は刃体の長さ約一一・五センチメートルの出刃包丁であり、その形状からみて、人を殺害するに十分な凶器であり、被告人は右包丁をもって至近距離からAの頚部や前胸部などを突き刺したり、切りつけたりしていることが認められる。

確かに当時被告人が相当な恐怖感に襲われていたことは否定できないが、恐怖感と殺意は必ずしも両立し得ないものではなく、被告人自身の供述によっても、犯行時の状況のうち、Aから包丁を取り上げて同人の胸部などを突き刺した行為の概要については記憶していることが認められる。

さらに、本件損傷は必ずしも浅いとはいえず、被告人自身認めているように、その攻撃力も相当程度の強さであったと認められ、特に、その身体の枢要部を避けようとか、手加減しようとの配慮をしたことは窺われない。

3  以上を総合すれば、被告人は少なくともAが死ぬかも知れないと思いながら、同人の身体を刺すなどの行為をしたと認めるのが相当であり、殺意が認められる。

なお弁護人は、本件致命傷の部位、包丁の刃体全てが突き刺さってはいないこと、被告人が殺意を表象する言葉を発していないこと、本件犯行直後にAの様子を気にしていないことなどからも殺意は有していなかったと主張するが、これらの事実は右認定を左右するものではない(なお、二8のとおり、被告人とAとは約三〇センチメートルの身長差があるから、本件致命傷の部位が極めて刺しにくい部位であるとはいえないと考えられる。)。よって、弁護人の主張は採用できない。

四  正当防衛及び過剰防衛について

1  急迫不正の侵害及び防衛の意思の存在について

(一) この点、検察官は、〈1〉被告人が包丁を奪い取った時点以後、Aからさらに被告人に対する攻撃がなされた事実はなく、右時点でAに対して攻撃に出なければ生命及び身体を守り得ないような状況は失われており、もはや急迫不正の状況は失われている、〈2〉仮に包丁を奪い取った後、反射的にAの胸部を刺したものであるとしても、致命傷である左頚部はもとより、顔面、背部等に対するその後の攻撃はおよそ反射的なものとはいえず、また被告人がAに対して体力的に明らかに勝っていることからみてもAを恐れるべき状況はなかったから右攻撃は急迫不正の侵害に対する防衛行為と認めることはできないと主張する。

(二) しかし、二で認定した各事実によれば、以下の事情が認められる。

(1) まずAの本件攻撃の意図であるが、詳細は全く不明であるものの、包丁でいきなり被告人の背中を刺したことからみて被告人に対する確定的な殺意があったことは明らかであるところ、Aはなおも包丁で被告人を刺そうとして、逆に被告人に包丁を奪われたが、その後特に逃げたり、被告人に許しを懇ったりするような態度は窺われない(前記のとおりAの背部には刺創が存在するが、Aが背を向けて逃げようとしたことを供述する目撃者はおらず、被告人とAの身長差によれば、被告人がAと正対しながらも、腕が背部に回るなどして右刺創ができることもあり得ないではないから、同刺創の存在のみによってAが逃げようとしたことを認定することはできない。)。

(2) 一方、被告人にとっては、身体の自由のきかない場所に座っていたところ、背後から包丁で突然、しかも全く無防備な部位である背中を刺されるなどということは全く予期しておらず、しかもこれによって致命傷ともいえる重傷を負ったものであり、精神的・肉体的なダメージは相当程度に達していたことが容易に推認できる。

(3) また、被告人がAから刺され、包丁を取り上げ、Aを刺すまでの時間につき検討すると、二6のとおり、調理場にいた経営者や被告人の隣の席にいた者らが事態を把握して被告人を制止したときには既に終了していたという極めて短時間の出来事ということができる。

(三) 右(二)(3)によれば、検察官が主張するように、胸部に対する刺突行為とその後の刺突行為を分断して、急迫不正の侵害の有無を検討することは事態の経過に照らして不自然であり、むしろこれを一体として考察すべきところ、右二5のとおりAは背中を刺突後なお攻撃を加えようとする状況にあったこと及び(二)(1)(2)によれば、〈1〉Aが、なおも包丁を奪い返すなどして再反撃の挙に出る余地がないとまではいえない状況であったこと、〈2〉被告人側の防衛力は相当程度に打撃を受けていたことが認められるほか、〈3〉同僚らが現在する店内とはいえ、それらの背部の狭い通路の中で至近距離で向き合っていた状況を合わせ考えると、Aから包丁を奪い取った後も、被告人が一連の刺突行為を行ったときまで、急迫不正の侵害はなお継続し、失われていないと認めるのが相当である。したがって、検察官の主張は採用できない。

(四) また、被告人はAに対する刺突行為を行っている際の心情として、恐怖心で一杯であり無我夢中であった旨を供述しているところ、この供述は突然背後から包丁で刺された際の心情を示すものとして誠に自然であり迫真力の高いものであり、特にこれに反する証拠はないから、この刺突行為は、自己の生命、身体を防衛する意思で行ったものと認めるのが相当であり、その機会を利用して積極的にAを攻撃しようとしたとみることはできない。

したがって、防衛の意思も認められる。

2  防衛行為としての相当性について

(一) この点弁護人は、被告人はAによっていきなり背中を刺されたという極限状態の中で無我夢中で包丁を振り回した結果、同人に傷を負わせ失血死させたものであり、このような緊急事態における行為を社会通念に従って一般人を基準として考えれば、防衛行為としての相当性を逸脱するものとはいえないと主張する。

(二) 確かに、四で検討したとおり、Aの攻撃はなおも完全に終了したとはいえず、一方被告人の精神的・肉体的な損傷は激しく、又一連の経過は極めて短時間の出来事といえることなどによれば、被告人の反撃行為が一定程度過剰となることはまことにやむを得ないともいえる。

(三) しかし、前記二の各事実によれば、包丁を奪いとった以上、これをAのいる方向とは別の方向に投げ捨てたり、Aの身体に組み付いて制圧するなり、同僚や経営者らに助けを求めたり、ごく近くにあった勝手口から逃げたりし、あるいはこれらの行為のいくつかを併せて行うなど被告人には防衛のために他に採るべき相当な方法があったと認められ、それにもかかわらず、包丁で、さしあたって素手の状態にあったAの胸部や顔面、頭部等を刺すなどした行為は、やはり、全体として防衛に必要な程度を超えたものと評価せざるを得ない。

そして、被告人が前述したとおり犯行の概要を記憶していることからみて、右過剰性を認識していたことは明らかである。

五  以上の理由で、誤想防衛については論ずるまでもなく、被告人の本件犯行について、殺人罪の過剰防衛が成立すると認定した。

【法令の適用】

罰条 刑法一九九条(有期懲役刑を選択)

過剰防衛 刑法三六条二項(情状によりその刑を免除する)

(なお、未決勾留日数については、算入すべき「本刑」(刑法二一条)がない以上、算入は問題とならない。また、訴訟費用については、「刑の言渡を」(刑事訴訟法一八一条一項)しないうえ、「被告人の責に帰すべき事由によって生じた費用」(同条二項)もないから、被告人に負担させないこととする。)

【刑を免除した理由】

一  本件は、被告人が被害者からいきなり包丁で背中を刺されたため、これを奪って反撃して死亡させたという事案について過剰防衛の成立を認めたものである。

確かに、尊い生命を奪ったその結果は重大であり、犯行の態様も被害者に多数の傷を負わせ、程なく失血死させるという悲惨極まりないものである。さらに、現在に至るまで慰謝の措置も何ら講ぜられていない。

二  しかし、被告人の犯行は、逃げ場のない場所で無防備な背中を出刃包丁で刺突されるという、場合によっては被害者と加害者の地位が逆転し自らが死亡するに至るやもしれない全く理不尽な不意の攻撃を受けたことに対して恐怖心にかられてとっさに行ったものであり、相当性の範囲を逸脱したとはいえ、その逸脱の程度はわずかであると評価できる。

また、慰藉の措置を講じていない点も、証拠上、被害者の親族の心情や交友関係を考慮した結果であることが窺われ、これを量刑上過大視することは相当でないと考えられる。

そのほか、被告人が本件を深く反省していること、二〇数年前の罰金前科があるに止まり、これまで普通の市民として平穏に生活してきたものであること、扶養すべき家族がいること、以前働いていた職場へ復職する見込みも大きいことなど被告人にとって有利もしくは酌むべき事情が存する。

三  以上の諸事情を総合考慮すると、被告人に対しては、宥恕すべき事情があるものと認め、刑を免除するのが相当と判断した。

よって、刑事訴訟法三三四条により主文のとおり判決する。

(検察官酒井徳矢、私選弁護人寺内清視(主任)、西口徹、三浦直樹各出席)

(求刑--懲役七年)

(裁判長裁判官 今井俊介 裁判官 水野智幸 裁判官 安永健次)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例